散歩するように生きる

リタイア後の日々の暮らしと趣味と日本語教育のこと

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読めなかった本を読む『アルツハイマー病になった母がみた世界』

読めなかった理由とは

 気になっていたのに、ずっと読めずにいた本がありました。それは、齋藤正彦氏の『アルツハイマー病になった母が見た世界——ことすべて叶うこととは思わねど』(岩波書店)です。

www.iwanami.co.jp

 実はこの本の主人公のお母さん=玲子さんと私は、一緒に留学生に日本語を教えていました。まだ私たちが千葉に住んでいた頃のことなのでずいぶん昔ですが、一時期でも親しく付き合い、家も行き来した方がアルツハイマー病になった話、すでにホームに入って亡くなられたことももちろん知っていましたが、その様子を知るのは怖く感じ、評判になっていることを知っていても、手に取れないでいました。しかし、最近になって読もうと決心しました。それは私の母も、似たような状況になってきたのではと思うことが多くなり、玲子さんの様子を知ることが母と接する際のヒントにもなるかもしれない、と感じたからでした。

玲子さんと私

 この本の著者齋藤正彦氏は高明な精神科医で、しかも認知症の専門医です。母である玲子さんが死の2年前まで毎日つけていた日記を読み解き、玲子さんがどのように周りの世界と自分の認知を捉えていたかを明らかにしようとした本です。またそれと同時に、ご家族がどう接し、どんな対応をされていたかも、詳しく書かれています。

 私が玲子さんと知り合った時には、すでにご主人が亡くなり、以前は歯科医院を兼ねていたという大きいお宅に、娘さんと一緒に住んでいらっしゃいました。私も時々伺って、お昼をご馳走になったり、クリスマスパーティーに参加したこともあります。また私の自宅は、当時は狭い公務員住宅でしたが、そこで留学生を呼んでパーティーをした際にも、娘さんと一緒に来てくださったりしました。玲子さんは、この本でも描かれていますが、日本語を教えるだけでなく、短歌の歌集を出し、聖書や古典の講読会にも参加し、海外旅行などにも行っているような、上品であたたかい方でしたが、知的で積極的な方でもありました。

 その当時、千葉大学は千葉県出身の日系人の子孫を留学生として受け入れていましたが、私はその留学生たちに日本語の個人レッスンをしていました。その人数が多くなり、知人の紹介で知り合った玲子さんにも個人教授をしていただくことになったのです。ブラジルやアルゼンチンの日系人の留学生は、皆いい学生ばかりで、しかも玲子さんと同じクリスチャンだったこともあって、玲子さんのお宅に熱心にレッスンに通っていたようです。そのことが日記にも書かれています。私にとっても、日本語教師の駆け出しの頃のことで、懐かしい思い出です。

活発な生活と歌集の出版

 私が玲子さんと知り合い、共に日系の留学生に日本語を教えていたのが1990年ごろでした。その頃の玲子さんは、日本語を自宅で教えるだけでなく、スペイン語の勉強をしたり、短歌や古典の勉強会などで多く外出をしています。

 1993年には、『藤の花房』という歌集を自費出版されました。私もいただき、大切に本棚に保管してありました。あらためて今回、出して見てみました。ご主人が亡くなる前年に庭に藤棚を作り、翌年藤の花をご主人と共に見るのを楽しみにしておられたのに、結局、見ることもなくご主人が亡くなったことから、このタイトルがつけられたのだそうです。

 

留学生への日本語教室をうたった歌がたくさん含まれています。

  夫の死後得たる仕事を励みとし若く見ゆると言はれて暮らす

  雛あられ包みて帰りし留学生今宵の寮に友と分けゐむ

  移民せし父祖の意気をぞ偲ばせて日系留学生礼儀正しき

これらを読むと、この頃のことがありありと思い浮かびます。確かに日系人の留学生は皆礼儀正しく、熱心に学び、家族や友人を大切にする、古き良き時代の人たちを感じさせるものがありました。玲子さんにとっても、そういう留学生に接することはきっといい経験だったんだろうと思います。

 正彦氏のご著書によると、1991年にもの忘れや勘違いなどの記述が日記に現れたとあります。私はそのことに気づいていませんでした。というより、まだまだ私自身が若く老いの認識などの関心を持てず、年上の優しい仕事仲間というような気持ちだけで接していたのかもしれません。その頃の玲子さんは、今の私と同じような年齢だったのでした。

その後の玲子さん、そして私の母

 その後玲子さんは10年ぐらいして、認知的な問題が周りに影響を与えるようになり、ご自分も日記にそのことを繰り返し書かれるようになります。自分でも気をつけなければと思いつつ、どうしようもないことにうなだれているというような印象を受けます。正彦氏もトラブルの対応を手伝っていますが、「私の配慮のない言動が、揺らぎつつあった母の自信を決定的に傷つける一撃になりました。そうして、それを私が知ったのは、これから15年以上が過ぎ、母の日記を読んだときのことでした。」と記します。

 私の母も92歳になり、一応一人で自立した生活をしています。が、やはり約束の忘れや置き忘れなどが多発し、私たち家族にも影響が出てきています。そんな時、つい、「もう私に任せて。母さんは何もしなくていいから。」などと強い調子で突っぱねたりしてしまいます。私の実家は気難しい父がいて何かと大変だったのですが、母が采配をふるい何とか家族らしい営みを形にしてきました。それなのに母は、昔ひ弱だった娘にそんなことを言われているのです。そう考えると、言っている自分も悲しくなってしまいます。しかし専門家である正彦氏ですら、ご自分のお母さんへの接し方には後悔があるのだなと、この問題の奥深さと難しさを感じました。

玲子さんの日記と母のメール

 玲子さんが欠かさずつけていたのは日記ですが、私の母は、15年近く私と毎日メールの交換をしていました。離れて暮らしていたこともあり、安否確認の意味もあり、メールを毎日送り合うという習慣を続けていました。母も私も最初はいわゆるガラケーで、その後iPhoneへと変わりましたが、毎日、結構長くその日にしたことや会った人、買ったものなどについて書いてきました。時には写真も添付されていました。その中に、病院の予約時間を間違えて受付の人に怒られた挙句、今日は診療はできないと帰された話や、傘や杖を置き忘れた話がだんだん出てくるようになってきます。きちんとしなければなどと、自分を奮い立たせるような記述があるのも、玲子さんと同じですし、時に、最近頭が悪くなったと嘆くのも同じです。

 このことからは、認知的な問題はもちろん誰も好きでなっているわけではないし、自分なりに色々な対処をしながら頑張ろうとしている姿が浮かび上がります。その気持ちをうまく活かしながら、少しずつ活動を狭めていってもらえたらと思いつつ、現実はなかなかそのようにうまくいくとは限らない気もしています。母と付き合いながら、いずれは自分のことにもつながっていくのだなと思う日々です。

 

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